イロドリ日記

毎日に彩りをプラスしていきたい

表現することについて考えてみる。

最近、フェイスブックを開くと、いきなり

戦争で亡くなった方の写真とか、象牙のために殺されてしまったゾウの写真とか、ファストファッションの裏で起こっている悲劇的な写真がばーん!と出てきて、それがけっこうショッキングなものなので、現実に起こっていることなのだし、それから目を背けてはいけないとは思うんだけれども・・・・・。驚きが先にきてしまい、正直困惑することの方が多い。

 

もちろん、戦争の悲惨さや、動物愛護やいろいろなことを訴えるのが目的なのだろうけど、写真の残酷さばかりが目立ってしまって、

 

本当に伝えたいことが、伝わるのだろうか?

 

と疑問に思う。

 

 

話は変わるけれど、わたしは園子温監督の作品がとても好きです。

好き、というと語弊があるかもしれないけれど、

園監督の作品のあの見る人をとことんまで追い詰めるシビアな表現、

人間のもつ残酷な面をこれでもかと見せつけてくる厳しさに、

具合が悪くなりながらも、映画を見てるだけでとことんまで精神を破壊される

ようなこともあるけれども、それでも、

「見てよかった。この表現を知らないまま死ななくてよかった」

と思います。

 

残酷さ、という面からすれば、SNSに現実に起こっている悲惨なできごとを投稿するのと、変わらないのかもしれないけれど、

 

園監督の映画は、自分自身で現実を受け止め、それを自分の中で咀嚼して、それを自分の表現として、作品にし、世界に向かって発信し、それを見たいと思う人たちに向けて提供しているのに対し、

 

SNSの投稿は、目の前に起きている現実を、ただ鵜呑みにして、

誰がどんな状態で見るのかもわからないのに、自分自身のなかを通さずに、ただ垂れ流している

 

そんな違いがあるように感じます。

 

悲惨なことを、ただ悲惨なままに、誰かに伝えるのでは、

本当に伝えたいことは伝わらずに、現実に起こっているはずなのにリアルさがかけてしまうように感じます。

 

それを、自分のなかをとおし、悲惨さに対して、自分はなにを感じるのか、誰かに向けて、どう表現していきたいのか、悲惨さに自分のネガティブな感情をただ載せるのか、それを表現として昇華させるのか。

 

何かをどうしても伝えたいと思うとき、

単なる自分本位のものになってしまわないために、

ただ人を不快にさせるものになってしまわないために、

 

それをどう表現するのか、は、

 

常に真剣に考えなくてはいけないのだ、

 

と思います。